えちょ記

語らないブログ

次が遠くなるとき

技術屋とコンテンツ屋の意識の違い、大きいのは「設計が古くなることへの不安」の感じ方だと思います。

設計が古くなる、というのはソフトウェアのコードが古くなること自体もありますが、むしろ「新しい技術の取り込みがしんどくなる」事を指すことが多いです。

設計思想の理想と現実

設計思想はその時々の技術トレンドによって変わりますが、基本的には今の技術を見据えつつ今後数年に出てくるであろう新技術をなるべくなら「簡単に」取り込めることを理想とするものです。

ただ、理想は理想。アプリケーションは「世に出すことが正義」である以上、あまり設計を追い求めてもいけない。伺かの根底の設計は「世に出すこと」を優先した部分がかなり色濃く残っています。それでも当初は基本設計さえぶち壊す勢いでアジャイル開発(‥‥あー、このころはそんな言葉もありませんでしたね)が進んでいたので、「最新技術」は割と近い所に居続けました。

捨てるも地獄、進むも地獄

さて一方、「今、基本設計を全部捨てて進められるか?」、となると少し停滞状況。技術屋さんはともかく、全部捨てられたら古いコンテンツをどうするのかという問題が出る。古いものをサポートしつつ新しいものを取り込むのは、非常に骨が折れる作業です。特に、プログラムコードがコンポーネント化(部品になって入れ替えることができる仕組み)されていない部分のメンテナンス負荷は顕著になります。

バラバラ殺人事件

今の伺かの設計でコンポーネント化されていない部分は「ゴースト描画系」と「プロセス空間」です。

まず、描画系ですが。AIはうまく切り離されていますが描画に関してはプラットフォームが丸抱えしているため、簡単に拡張を行うことができません。この部分がAIと同じように何らかのコマンド通信だけで繋がっているのであれば、その先を丸ごと差し替えることでどうとでもなる部分があります。また、描画系のトレンドはまさしく日進月歩の領域であり、この分野について自力で最先端に居続けることはほぼ不可能。可能であればうまくオープンソースを取り込める下地が必要な分野です。

もう一つは「プロセス空間」。割と根本的な問題ですが、伺かは1つのプラットフォームにゴーストが複数存在する設計であるため、ゴースト同士の干渉が問題になります。SHIORIは汎用スクリプト言語を使えればかなり楽になるのですが、一方多くの汎用言語はプロセス空間より小さな単位で干渉しないような設計とはなっていません。1つのプラットフォーム内で、「知らない他人同士が作ったゴースト」が干渉せずに存在できる仕組みを構築するのは実は大変なのです。これが「デスクトップアプリが単発で数多く存在する割に、プラットフォームがほとんどない理由」といってもいいかもしれません。

今どきの設計トレンドは、「内部でゴースト毎に別プロセス空間を立ち上げる」となるでしょう。あるいは.NETであるならアプリケーションドメイン(.NETの仮想プロセス空間)で環境の干渉を封じ込める、となります。

求められる技術なのか?

ぶっちゃけるとデスクトップマスコットの分野に「生粋の技術屋」が生まれる可能性が低いんじゃないか?と。技術屋が自分で実装しちゃうと、1体完成させた時点で満足しちゃって、普通プラットフォーム展開まで考えないんでしょう。伺か以降、この分野に単発が多い理由はそんなところだと思ってます。

コンテンツは爆発だ!

なら、「伺的」分野は今後悲観なのか、というと。悲観はしてませんが楽観もしていません。中か外からやってくるかはともかく、この手の分野は突然爆発的に生まれてくる、あるいは生き返るものだと思ってます。互換とかあまり考えずに出てくるでしょう。

その時「伺か」がどうなるのか。たぶんコンバートなりなんなり、あっさり移っちゃうんじゃないかなー。技術屋もコンテンツ屋も楽しければいいんです、魂は消えないです、きっと。

少しずつ変わる道、改革を求める道、黒船がいきなり作る道、色々とあると思いますが、「窓のないゴーストの世界」はあり続ける。きっと大丈夫。

‥‥不安の話はどうなった?

「設計が古い」のは、すぐ解決する問題じゃない。伺かクラスのアプリを本気で再設計するなら、1年はフルタイムで仕事をできる位の人が中心にいないと難しい。普通に仕事で予算切るなら3〜4千万円以下にはならない。絵を含めた総予算でいえば一億の仕事です。だからこそ無責任に楽観でやってみよーなんて言うつもりはないですが、一方で技術力のある学生(またはニート‥‥はっ)が一旗揚げるにはちょうどいいコンテンツです。

なので、技術屋の不安はどーにもならないが、いつかいきなりぶっ飛んだ解決策が提示される、という結論。最新技術が遠い今の状況は、本質的には「伺か」がぶっ飛ばされるまで改善されない。ただしそれは悲観でも誰かが悪いわけでもなく、デスクトップマスコットという技術が持つ本質だと思ってます。表現の世界はいつでも大きな淘汰に晒されている。命が晒されるわけじゃなし、ネガティブにならずに、やりたいことができる船に乗っかればいいと思ってます。